生きているだけで十分仕合わせだ

今まででハッとしたこと。驚いたこと。生きていくうえで確かなこと。私の息子(昭和60年生まれ)に是非伝えたいことを書いていきます.猫に小判か、みずみずしい類体験か。どうぞ後者でありますように。

巷で言われる「いい人」とは? 自分の評判をよくする方法

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私達は、人の評判を全く気にしないで生きてゆけません。

もっとも、人の評判を気にしてばかりいて右往左往するのは論外ですが、自分が人からよく思われないことが続いたりすると考え込んでしまいます。

しかし、誰からも好かれるなんて出来っこありません。

そうしたときに、どうしたらよいのでしょうか。

 

目次

 

1.いい人とはどんな人 

「あの人はいい人だ」ということをよく耳にします。いい人であれば、人からよく思われない、ということはなくなります。

いい人だ、いい人だと巷で言われるのは、一体どういう人のことを指すのでしょうか。

じっくり考えてみました。

どうやら、いい人だと言われているのは、いい人だと言った人にとって都合の良い人のことのように思われます。

Aにとって都合が良い、言い方を変えれば組し易い人、Bにとっても、Cにとっても組し易い人、そういう人をいい人だと言っているように思います。

A、Bにとって組し易くても、Cにとって組みにくければ、評価が分れ、いい人でなくなります。

 

2.いい人の特徴 

このように誰にも組し易い人は、人の話をよく聞いて頷いてくれる人です。我を通すことはなく、常に相手の立場になって考えてくれる人です。

おとなしい人で、自己主張をあまりしない人が多いといえます。

常に人の話を肯定的に聞いてくれると、誰しも心地がよく、その人を悪くは思いません。いい人だと言います。 

 

3.いい人の一側面 

もっとも、いい人は誰しもが付き合いやすいのですが、何となく物足りないともいえますし、人にいいように使われやすい側面があります。

 

4.自分の評判をよくするためには、いい人になってみるのも一考 

 私達はいくつかのコミュニティに属して生活していますが、どのコミュニティでも、みんなから受けがよいなんて出来ない相談です。万人に好かれるなんて出来っこありません。しかし、いい人は所属しているコミュニティでよく収まっています。

自分が人からよく思われないことが続いたら、ときに、いい人になって活路を開くのも一考です。

例えばおとなしくして、自己主張は極力しない、自己主張するとしてもおだやかに主張する、とか。

誰も気づかない仕合わせになる方法! 君は喜びを最大限に表現しよう

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私達は自己実現したとき仕合わせを感じますが、それに劣らず、相手が喜んでくれるときも仕合わせな気持ちになります。

さらに一歩進めて考えると、相手も、また、他人である自分が喜ぶと、仕合わせな気持ちになります。

 

目次

 

1.仕合わせを感じるときは自己実現したとき 

私達は、どういうときに仕合わせを感じるのでしょうか。

大抵の場合は、自己実現したときです。

それも困難であれば困難であるほど、それを克服して自己実現したときは、喜びはひとしおです。

バルセロナオリンピックで、当時14才であった岩崎恭子選手が水泳で金メダルを獲得したとき、「今まで生きてきた中で、一番仕合わせです」と言ったことが想い出されます。

難関の試験に合格したとき、大きな仕事を成し遂げたときなど、誰もが自己実現したときは仕合わせな気持ちになります。

 

2.自己実現より相手に喜んでもらったときの方が、より一層、仕合わせを感じることがある 

ところで、私の経験では、自己実現したときはもちろん嬉しかったのですが、それよりも相手に喜んでもらったときの方が、より一層、嬉しかったことがあります。それも数段嬉しかったことがあります。

その理由は何故だか解りません。

不思議といえば不思議ですが、確かにそうなのです。

自己実現したわけではないのに、相手に喜んでもらったに過ぎないのに、相手の喜んでいる姿に遭遇して、大変仕合わせな気持ちになったことがあり、そうして相手の喜びが大きければ大きいほど自分の喜びもまた大きいということがあります。それは自己実現したときの喜びより、比べようもないほど大きな喜びでありました。喜びの質が違います。

このような経験をしている人は私一人ではないと思います。

 

3.相手もまた、自分が喜んだ時に仕合わせを感じるときがある 

私自身が、相手の喜ぶ姿に出会って、大変仕合わせな気持ちになるのであれば、相手もまた、他人である自分の喜びようをみて、仕合わせな気持ちになることもあるのではないか、そうして自分の喜びようが大きければ大きいほど相手の喜びも大きくなるのではないか、と考えてみました。

 

4.自分が嬉しいときは、飛び上がらんばかりに喜ぶ 

上の消息を一歩進めて考えると、それまでは気づかなかったのですが、自分自身の喜び方そのものも、実は、大変大切なことなのではないか、と考えました。

それなら、どのような喜び方があるのかというと、それは、喜びを大きく表現する、ということではないか、と思うのです。 

自分が嬉しいときは、大きく喜びを表現する、そのことでそれに接した相手は、その分だけ大きく仕合わせな気持ちになるのではないか、と思うのです。 

もちろん、大きな喜びでもないのに、とってつけたように大袈裟に喜んでも、相手はすぐに見抜いてしまいます。

そういうことを言っているのではなく、相手から受けた言動や行動に対して、素直に嬉しいと思ったときは、その気持ちを、ストレートに大きく表現する、オーバーに言えば、喜びを爆発させる、ということです。

それまでの私は、自然体で、相手が喜ぶ姿に接すると、その相手の喜びの度合いに応じて、喜んでいました。 

自然体は、それはそれで大切なことですが、自然体の延長線で、思い切って大きく喜びを表現する。そうすると、喜びの表現が大きければ大きいほど、きっと相手の心をより和ませ、相手をより仕合わせにするのではないか、と思うのです。

考えてみますと、自分自身の喜び方、表現方法も人生において大きな比重を占めるのであり、相手の仕合わせを大きく増幅させるに違いない、と思うのです。 

 

世のため人のために尽す ウソをつけ! 君は自分の職業に疑問を抱いたことはないのか

私達は、多くの人が、何らかの職業に就いています。そして職業を通して「世のため人のために尽す」という命題に、意識的にせよ、無意識的にせよぶち当ります。それをどのように咀嚼したらよいのかを考えてみたいと思います。「世のため人のために尽す」といいますが、自分のこととして考えた場合、それは一体全体何なのだろうか。

 

目次

 

1.自分の選択した職業は「世のため人のために尽す」ということと無縁ではないのか 

「世のため人のために尽す」ということがいわれています。挨拶などで、「私は仕事を通して、世のため人のために尽す」と広言する人がいますが、安易すぎてギョッとします。一体、どういう料簡でこの言葉を発しているのだろうか、と思ったりします。

私達は、社会の構成員として何らかの仕事に携わっていますが、その仕事自体が「世のため人のためになっている」と考えている人は、そう多くはないのだろうと思います。

医師とか看護師とか教師とか、仕事そのものが直接的に人助けとか、人の育成とかに結びついているものは別ですが、多くの場合は、例えば企業の一員であるサラリーマンは、自分の従事している仕事が「世のため人のためになっている」と思っていないでしょう。少なくとも、日々、仕事をしながらそれを実感している人は少ないでしょう。

 

2.職業を選択した基準は生活のためが第一ではなかろうか 

自分の携わっている仕事を無理にこじつけて、「世のため人のため」といったって、ピンときません。殆んどの人が生活のために仕事をしているというのが正直なところでしょう。「仕事を通して世のため人のために尽す」といったって、よく言うよです。

そうであるなら、仕事に関する限り、「世のため人のため」という命題は放棄されるものでしょうか。

そうではないと思います。

 

3.「駕籠(かご)に乗る人、担(かつ)ぐ人、またその草鞋(わらじ)を作る人」

この言葉は、「世の中には階級、職業がさまざまであって、さまざまな境遇の人が持ちつ持たれつして成り立っている。どれ一つとっても欠かすことができず、そのおかげで社会が成り立っている。どの職業も立派に役に立っている」ということです。

自分自身が携っている仕事が、「 世のため人のために尽す」とピンとこなくても、すべての仕事は社会で一定の役割を担っており、立派に社会貢献をしている、といえます。それぞれが自分の与えられている仕事を全うすることで、社会の一員としての役割を果し、「 世のため人のために尽している」といえます。

ここで弁護士を例にとってみます。

AとBの間に金銭トラブルがあります。

Aについた弁護士はAのために、Bについた弁護士はBのために、弁論を展開します。

Aについた弁護士は、Aの正当な利益を実現する限りで、Aのために知恵を絞り、何とかAに有利なように努力します。Bについた弁護士は、Bの正当な利益を実現する限りで、Bに有利なように努力します。

双方の弁護士とも、直接的には 「世のため人のために尽す」のではありません。Aに有利なように、Bに有利なように努めます。その結果Aに有利な判決がでれば、それは反射的にBにとって不利な結果となります

弁護士は日常の仕事のなかで、自分のやっていることが、「世のため人のためになっている」のか、ひそかに疑問をもっていることでしょう。

しかし個人間の争いが、個人間の歩み寄りで解決できればよいのですが、そうはいかなくなったとしても、暴力によって解決するのではなく、裁判によって解決することで(自力救済禁止の原則)、社会の秩序が保たれています。弁護士は裁判制度の中で裁判官とともに立派な役割を担い、立派に社会貢献を果しているといえます。

 

4.職業には社会貢献しない部分もある 

ところで、上記で触れたように、どの職業も社会の一部を構成し、社会において一定の役割を担っているといえますが、すべてがすべて社会に貢献しているとは限りません。

例えば、自動車についていえば、自動車は間違いなく私達に便益をもたらしていますが、他方で排気ガスを発生し、地球温暖化をもたらしています。正しく社会貢献する道に軌道修正をすることが今日的課題となっています。

そのほかにも、例えば、農業における農薬、漁業における養殖魚、健康に害を及ぼすものが少なくありません。

私達の職業は、それぞれが社会の一部を構成し、社会で一定の役割を担っており、自分に与えられた仕事を全うすることで「世のため人のために尽す」といえますが、職業そのもの、或は職業の一側面が社会に害を与えるものもあるんだ、ということを忘れてはならないと思います

私達の職業が丸ごと或は大筋で社会に貢献しているか否かは、常に吟味する必要があります。

社会に害を及ぼすのであれば、大変困難なことですが、社会に貢献するように軌道修正する労を惜しんではなりません。

 

5.どんな職業も人との交わりがあり、人を感動させる機会がある 

さて、職業を遂行するうえで、忘れてはならないことがあります。

それは、どんな職業も人と人との接触があるということです。

一見、世のため人のために役立っているとはいえそうになくても、人との接触において、「世のため人のためになっている」ということがあります。実は、このことが「世のため人のために尽す」という命題の答えとして、忘れがちとなりますが、大変重要なことではないか、と考えています。

弁護士であれ、自動車産業の従事者であれ、農・漁業従事者であれ、与えられた仕事を全うする中で、明るく、朗らかに、誠意をもって人と接触する、これが何よりも大切であり、そうしてまわりまわって「世のため人のために尽す」ことになっているのではないか、そう思うのです。

この消息は、案外、大多数の人が気づいていないのではないでしょうか。

 

6.「トンカツ屋」のおかみの話 

今は閉店してありませんが、私の事務所の近くにこぎれいな「トンカツ屋」がありました。そこのおかみは、私の行き付けの床屋の話によりますと、昔は美人で小野小町といわれたそうです。そのおかみですが、客への気配りはそれはそれは素晴しいものでした。

お茶がなくなりそうになると素早く客席まで来て、「お茶は如何ですが」と聞いてきます。タイミングが絶妙なんです。

何度か女房を連れて「トンカツ屋」で食事をしましたが、普段は厳しい彼女も、おかみの対応に感心しきりでした。

おかみはヘルメットを被り、ミゼットに乗って、近所を配達してまわっています。その姿をよく見かけたものです。

その働きぶりは、私の心を温かく温かくしてくれました。多くの人に元気を与えてくれたと思います。

 

7.「世のため人のために尽す」と職業の選択 

私達は、それぞれの背景のもとで職業を選択し、それにより生活を営んでいます。

職業には社会に害を及ぼす部分もあり、それは批判的に吟味しなければなりませんが、それぞれの職業は社会の一構成部分を形成しており、一定の社会的役割を果しています。

その意味で与えられた仕事を全力で全うすることは大変意義のあることです。

そうして仕事を全うしながら、明るく、朗らかに、誠意をもって人に接する、「トンカツ屋」のおかみのようにです、そのことが、仕事を全うするとともに大変大切なことだと思っています。

どんな職業においても、明るくて、朗らかに、誠心誠意、依頼者や仲間に接することで、「世のため人のために尽す」ことができるのであり、また最も意を注ぎたいことです。

不動産市場異変! 大規模住宅団地の相次ぐ値崩れ! 大規模住宅団地(快適性)は買いのチャンスだが、それでもパワービルダー(利便性)を選択するのか

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「利便性」と「快適性」を秤(はかり)に掛ける

私達は、衣食住、いずれにおいても、「利便性」か「快適性」か、どちらかに比重を置いて選択しています。

「利便性」と「快適性」という二つの物差しを尺度として行動していることに気がつきます。

意識的にせよ無意識的にせよ、ある行動に出ようとするときは、大抵の場合、ほかの尺度もありますが、上の二つの尺度は使っているといってよいと思います。

そして、時代が進めば進むほど、とくに若い人を中心に、その選択は、「快適性」よりも「利便性」に比重が移っています。

それも飛躍的なスピードでです。

これは驚くべきことです。

 

住まいの選択について 

ここで、住まいの選択についてふれてみたいと思います。

住まいの選択で、この10年から20年の間に起こっている注目すべきものとして、「大規模住宅団地の値崩れ現象」と「パワービルダーの登場」があります。

「大規模住宅団地の値崩れ現象」 

東京近郊で、昭和40年から昭和50年にかけて、大規模な住宅団地が開発され、分譲されていますが、その住宅団地で値崩れ現象が起きています。

一例を挙げると、千葉県の東急柏ビレッジでは、平成20年、21年に大幅な値崩れが起こり、一時値下りは小さくなっていましたが、平成27年から再び大幅な値下りが生じています。

大規模住宅団地には、つぎの特徴があります。 

・バス便      都心から遠く且つバス便

・1区画が大きい  50坪以上で庭つき

・住環境が良好   区画整然としている

・住んでいる人   高齢者が多い 

値崩れ現象が生じた原因は 

住んでいる人は高齢者が多くなり、彼等は、利便性のよい駅近のマンション等に移っていきます。これに対し、30才~40才の一次取得者は、利便性の劣る大規模住宅団地には興味を示さず敬遠します。

供給は出るが、需要は弱い、という基本的な構造が続いています。 

「パワービルダーの登場」 

パワービルダー(一次取得者をターゲットにした床面積30坪程度の土地付一戸建住宅を2,000万~4,000万程度の価格で分譲する建売分譲業者を指す)が首都圏を中心に勢力を伸ばしてきたのは、1990年代後半の、経済低迷期が始まってから10年近く経った頃です。急成長をとげ、住宅の供給戸数は、業界首位の積水ハウスを大きく上回っています。パワービルダーは、つぎの特徴があります。 

・徒歩便      都心に近く且つ徒歩便

・1区画が小さい  30坪~40坪で庭ナシ

・住環境は普通   整形地のほかに旗竿地が見られる

・住んでいる人   30才~40才の若年層 

パワービルダーが勢力を伸ばした原因は 

30才~40才の一次取得者が購入できる予算内に売買金額がおさまるという経済的理由がありますが、一次取得者のイメージする以下の住宅に適合していることが考えられます。

  1. 利便性のよいところ。駅から歩けるところで徒歩10分以内、ギリギリ15分以内。駅も都心から利便な駅。
  2. 土地は広い必要はない。30坪~40坪でかまわない。しかし駐車場スペースは欲しい。広い土地で庭いじりをすることは避けたい。共稼ぎであれば、庭いじりする時間は作れない。
  3. 住環境はほどほどでかまわない。住宅は自分達一代限り、子供に残すことは考えない。 
大規模住宅団地とパワービルダーにおける買主の選択基準 

昭和50年、60年代は、「団塊の世代」を中心に、彼等は、通勤に都心から1時間半から2時間近くかけても「郊外の庭つき住宅」を求めました。

平日は残業に残業で、楽しみは休日の一家団欒、庭いじりであったのです。

彼等は「利便性」より「快適性」を選択したのです。

これに対し、現代は楽しみは多種多様であり、便利なところにお金を分散させます。結果として、土地は狭くてかまわないから、都心に近くて駅から歩けるところ、すなわち「快適性」より「利便性」を選択します。

住まいは、「都心から1時間半、2時間かけても庭つき住宅」から「庭なしの住宅で都心に近いところ」に移っています。

住まいの選択は、「快適性」から「利便性」にカーブが切られており、その様変わりに驚くほかありません。

 

住まい以外の選択は 

「衣」についても、「食」についても、私達は知らず知らずのうちに、「快適性」か「利便性」か、どちらかに比重を置いて選択していますが、ここでも、「快適性」より「利便性」に比重が移ってきていることに驚かされます。

衣服は、ユニクロが売り上げを伸ばすところをみると、高級品(快適性)よりも低中級品(利便性)を数多くそろえ、数多い分、快適ともいえなくもありませんが、むしろ、多様な用向きにチョイと合わせられて便利、ということを選択する傾向にあると思われます。

食事についても、以前のように手作り(快適性)というよりも、冷凍食品を組み合わせたり、外食をしたり(利便性)ですませることが多くなってきています。

 

社会の流れは「快適性」から「利便性」に 

衣食住について、「快適性」から「利便性」に比重が移っていることを書いてきましたが、考えてみますと、社会の進歩は、「利便性」の向上という視点でみることができます。

代表的なのは交通手段で、これはまさしく、社会の進歩とともに利便性の向上があります。徒歩、自転車、電車、自動車、飛行機と続き、より広く、より早く、私達を運んできました。

より便利に、より便利になっています。

また情報伝達も、新聞、ラジオ、テレビと続いて、今は、インターネットが大きな役目を果しています。より広く、より早く、私達に情報を伝えます。

これも、より便利に、より便利になっています。

 

「利便性」を追う社会の大きな潮流の中での私達の生き方 

これまで、私達は「利便性」を追っていることに急であることを書いてきましたが、そういう状態にあることを正しく認識して、さて、その中で私達はどう生きるか、ということを考えてみたいと思います。

「利便性」が悪いというのではありません。利便ゆえに快適だというのがあります。そして、そもそも「利便性」を追う社会の潮流に、私達は逆らうことはできません。したがって、「利便性」は積極的に享受すべきです。

しかし利便は手段であって目的ではありません。私達が求めるのはあくまで快適のはずです。利便はともすると息が詰まり、ストレスを生む側面を持っています。「利便性」を求める中にあっても、本来求めたい快適のことに思いを馳せるゆとりが欲しいものです。

いま、仮に利便は「時間軸」で、快適は「空間軸」で捉えるとしますと、私達は時間を無視して空間に遊ぶことがあってもよいと思うのです。

例えば旅行は、時間の経過を横にうっちゃって、経済的な時間は無視して、空間の広がりを楽しむことになります。「利便性」を無視して「快適性」を求めるのは、旅行にかぎらず、習いごと、芸術鑑賞、スポーツ等々、たくさんあります。

日常生活の中でも、例えばちょっと日用品の買物を、近くて便のよい店ですませるばかりではなく、少々遠いが美味しいものを売っている店に出向いてみる、といった具合に、空間を広げて、「快適性」を求めることができます。

「利便性」、「利便性」を追う中にあって、のんびりとした時間をつくり、行動半径を広げることを意識的につくるということで、快適を享受する。

早口ではなく、ゆっくりと話す。せかせか歩くのではなく、のんびりと散歩する。

「利便性」を求めるのに急である現代の社会の中であればこそ、「快適性」をどうしたら享受できるのか、私達の今日的課題といってよいのではないかと思います。

大坂なおみの転倒直後のNO発言は、「力」を生んだ! 全豪オープンテニス

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大坂なおみの「NO!」に、一瞬、観衆は静まり返ったが・・・。

全豪オープンテニス、女子シングルス3回戦で大坂なおみと謝淑薇(台湾)の試合、その終盤のラリー中に、大坂なおみは転倒して足をひねり、体は仰向けになった。

観衆は一瞬どよめいて静まり返った。主審から「大丈夫?」と声が飛んだようだが、すかさず大坂なおみは「NO!」と返答し、そう言った後で、にっこり笑い、大丈夫と右手を挙げてジェスチャーを送った。

 

「NO!」は茶目っ気、観衆の大笑いを誘う

大坂なおみは、転倒しても体は大丈夫であったので、倒れた後すぐに大丈夫と言ってもよさそうなものだが、「NOと言って審判がどう反応するか見たかった」と言っている。NOと言った後ですぐに、右手を挙げて大丈夫とジェスチャーを送っているところをみると、ほんの一瞬だけ、イタズラをしてみせたのである。

茶目っ気たっぷりである。観衆は大笑いである。

緊張したグランドスラムの試合の中での、この茶目っ気ぶりは、心のゆとりがもたらしたものでそれ以外の何物でもない。

すごいことだと思う。

心のゆとりが観衆をなごませ、笑いに包みこむ。まさに「生きるとは笑うことなり」である。(当ブログ参照 2017/07/18 生きるとは笑うことなり

 

試合は人生の縮図である。その中で茶目っ気の役割は

テニスに限ったことではないが、スポーツの試合は人生の縮図ともいえる。

スポーツの試合では、守りを固めながら、果敢に攻めていく。一方で常に冷静に試合展開を読んでいく。

人生もそうだ。脇を固めながら、積極的にポジティブに行動する。一方で、常に冷静さを失わない。

茶目っ気は、スポーツの試合でも人生航路でも、スパイスの役割をもつということができる。

茶目っ気は心のゆとりから生まれてくるものであり、笑いを誘う。

そうして、これが肝腎だが、力を生むのである。

大坂なおみの「NO!」は力を生み、試合に勝利をもたらした大事なポイントになったというのは言い過ぎだろうか。 

 

追記 1月26日(土)、決勝でペトラ・クビトバチェコ)を2対1のスコアで破り優勝 

スコアは7-6、5-7、6-4の2対1。

第2セット中、大阪なおみはプレーが思うようにいかず、ラケットをコートに叩きつけようとしたときがあったが、かろうじて思いとどまっている。一瞬、この試合はダメかと私は思った。

しかし第3セットに入ると大坂なおみは平常心を取り戻した。第3セットの大坂なおみはまるで別人であった。そうして優勝だ。